福岡地方裁判所小倉支部 昭和49年(ワ)644号 判決 1978年10月03日
原告
池本美穂
右法定代理人親権者父兼原告
池本和紀
右法定代理人親権者母兼原告
池本俊子
右原告ら訴訟代理人
前野宗俊
外六名
被告
北九州市
右代表者病院局長
大塚金蔵
右訴訟代理人
二村正巳
主文
一 被告は、原告池本美穂に対し金一七、八〇三、一四九円、原告池本和紀および原告池本俊子に対し各金二、二〇〇、〇〇〇円、ならびに内原告池本美穂に対する金一六、二〇三、一四九円、原告池本和紀および原告池本俊子に対する金二、〇〇〇、〇〇〇円については昭和四七年七月二八日から支払済に至るまで、内原告池本美穂に対する金一、六〇〇、〇〇〇円、原告池本和紀および原告池本俊子に対する各金二〇〇、〇〇〇円については本判決送達の日の翌日から支払済に至るまで、それぞれ年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの、その余を被告の各負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告らの請求の趣旨
1 被告らは、原告池本美穂に対し金三二、一九〇、二七八円、原告池本和紀および原告池本俊子に対し各金三、三〇〇、〇〇〇円、ならびに内原告池本美穂に対する金二九、一九〇、二七八円、原告池本和紀および原告池本俊子に対する各金三、〇〇〇、〇〇〇円については昭和四七年七月二八日から支払済に至るまで、内原告池本美穂に対する金三、〇〇〇、〇〇〇円、原告池本和紀および原告池本俊子に対する各金三〇〇、〇〇〇円については本判決送達の日の翌日から支払済に至るまで、それぞれ年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言。
二 請求の趣旨に対する被告の答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 仮に被告敗訴の場合は、担保を条件とする仮執行免脱宣言。
第二 当事者の主張
(原告らの請求原因)
一 当事者
原告池本和紀、同池本俊子は、原告池本美穂(以下それぞれ「原告和紀」「原告俊子」「原告美穂または美穂」という。)の両親であり、被告は総合病院北九州市立八幡病院(以下「八幡病院」という。)を経営している。
二 原告美穂の視覚障害
原告美穂は、昭和四七年一月三〇日北九州市八幡西区の中島医院において、在胎期間三一週、生下体重一、六七〇グラムで出生し、保育器に収容されたのち、同年二月二日八幡病院に転院して保育器に収容され、同年五月一五日退院したが、同年二月ころ未熟児網膜症(以下「本症」「未網症」「網膜症」ともいう。)に羅患し、同年七月二八日本症瘢痕期となつて失明同然の障害を受けた。<以下、事実略>。
理由
一当事者
請求原因一、の事実は当事者間に争いがない。
二原告美穂の視覚障害
同二、の事実中、原告美穂が、昭和四七年一月三〇日中島医院において、在胎期間三一週、生下時体重一、六七〇グラムで出生し、保育器に収容されたのち、同年二月二日に八幡病院に転院して保育器に収容され、同年五月一五日退院したことは当事者間に争いがない。
<証拠>によれば原告美穂は、同年七月二八日被告市立小倉病院眼科栗本普二の診察を受け、右眼が未熟児網膜症瘢痕期Ⅱ度、左眼が同症瘢痕期Ⅲ度であると診断され、視力は両眼で0.02程度の失明同然で回復の見込みのないことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。
三未熟児網膜症について
成立に争いのない別紙文献目録記載の各書証によれば、次の事実が認められる。
1 本症の歴史的背景
(一) 本症は、一九四二年アメリカのテリーが水晶体の後部に黄白色の組織塊が未熟児で生れた乳児に認められたことを報告し、のちにこれにretrolental fibroplasia(R.L.F)なる名称をつけたことに始まる。わが国では水晶体後部線維増殖症などの訳語が従来使用されてきたが、昭和四一年国立小児病院眼科医師植村恭夫らはソースビイの提案に基づき、水晶体後部線維増殖症なる名称はオーエンス分類による本症瘢痕期ⅣないしⅤ度のもののみを示すもので、活動期より瘢痕期にわたる本症の全体を捉えるには、未熟児網膜症あるいは未熟網膜症なる名称が適切であると主張し、その後わが国では未熟児網膜症なる名称が一般に用いられてきた。
(二) 本症は、一九四〇年代の後半より一九五〇年代の前半にかけて未熟児に対し酸素を自由に使用していた時代にアメリカ等で多発し、羅患した乳児の約三〇パーセントが失明し乳児失明の原因の第一位を占めた。そこで本症の原因に対する追及が始まり種々の原因があげられた。一九五一年キヤンベルは、本症の発生が未熟児に対する酸素投与期間と関連して増加する事実を報告し、その後疫学的臨床的実験的に酸素投与との関連を中心とした大がかりな研究が行われ、その結果酸素濃度を下げ投与期間を短縮することが本症の発生頻度を明らかに減少させるという事実が、動物でも臨床的に立証された。これに加え、一九五四年バツツらは酸素療法の期間が本症の発生頻度と重症度に関連することは明らかにした。これらに伴つて一九五四年アメリカ眼科学会のR・L・Fシンポジウムにおいて「①未熟児に対する常例的な酸素投与の中止。②乳児がチアノーゼあるいは呼吸障害の兆候を示すときのみに酸素を使用する。③呼吸障害がとれたら直ちに酸素投与は中止する。」という勧告がなされ、これにより酸素の投与は厳しく制限され、本症の発生頻度は劇的に減少した。しかし一九六〇年アベリー、オツペンハイムは、酸素を自由に使用していた一九四四ないし四八年に比べて、酸素供給を厳しく制限するようになつた一九五四ないし五八年には、特発性呼吸窮迫症候群による未熟児の死亡が明らかに増加していることを報告した。また、網膜症の減少に反比例して脳性麻痺の発生頻度と重症度の増加がもたらされた。そこでそれ以後特発性呼吸窮迫症候群には高濃度の酸素投与が行われるよう酸素療法に変革が起こり、一九六七年パツツは、これに伴つて再び本症が増加する危険を指摘した。このような状勢の中で一九六七年アメリカの国立失明予防協会主催の「未熟児に対する酸素療法を検討する会議」が小児科医・眼科医、生理学者、病理学者を集めて開かれ、酸素療法を受けた未熟児はすべて眼科医が検査すべきこと、および未熟児は生後二才までは定期的に眼の検査を受ける必要性が強調された。
(三) わが国において未熟児施設が普及し始めたのは、欧米諸国において高濃度の酸素療法のため多数の失明の犠牲者がでた結果、厳重な酸素の使用制限にふみきつた一九五四年(昭和二九年)以後のことである。そのためわが国は未熟児網膜症の多発は免れたが、その反面本症に対する関心が薄く眼科医小児科医の間でも未熟児網膜症は既に過去の疾患であると考えられがちであつた。このため未熟児網膜症を実際に観察したことのある眼科医は少なく、未熟児網膜症の実態は殆んど知られていないので、しばしば誤診されがちであつた。
2 本症の臨床経過
(一) 本症の発症時期は、文献的には生後非常に早い例から五ケ月という例まであるが、大部分は生後三ないし八週間に発症する。在胎週数を延長して四〇週程度で発症することが多いといわれ在胎週数の長いものほど早く短いものほど遅く発症する傾向がある。本症は酸素療法を行つているうちに発症することは稀で、普通は中止してから起る。活動期の期間は二ケ月から一年以上にわたるものもありさまざまである。
(二) 臨床経過は、欧米の学者らによつて分類が試みられているが、従来わが国で最も多く使用されているオーエンスの分類(一九五五年発表)によると、臨床経過は活動期、回復期(寛解期)、瘢痕期に大別され、その詳細は次のとおりである。
a 活動期 Ⅰ期(血管期)、Ⅱ期(網膜期)、Ⅲ期(初期増殖期)、Ⅳ期(中等度増殖期)、Ⅴ期(高度増殖期)Ⅰ期においては、網膜血管の迂曲怒張が特徴的であり、網膜周辺浮腫、血管新生がみられる。Ⅱ期では硝子体混濁が始まり、周辺網膜に限局性灰白色の隆起が現われ、出血もみられる。Ⅲ期に入ると、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が増殖性網膜炎の形で硝子体内へ突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起こす。更にⅣ期、Ⅴ期と進み高度増殖期は、本症に最も活動的な時期で網膜全剥離を起こしたり、時には眼内に大量の出血を生じ硝子体腔をみたすこともある。
b 回復期
c 瘢痕期 程度に応じて、次のとおり五段階に分類される。
Ⅰ度 眼底蒼白、血管狭細、軽度の色素沈着などを示す小変化
Ⅱ度 乳頭変形
Ⅲ度 網膜の皺襞形成
Ⅳ度 不完全水晶体後部組織塊
Ⅴ度 完全水晶体後部組織塊
(三) 最近に至り、眼底検査方法の発達、眼底写真撮影の進歩により、眼底病変の情報が得られるようになり、後記の光凝固の適期に関する問題点を整理するため、また臨床経過、予後の点から、従来の分類法にあてはまらない経過を辿り網膜剥離に至る型の存在が明らかになつたことから、植村恭夫医師を主任研究者とする厚生省研究班の報告した「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」(昭和五〇年三月)の中で、左記の如き新しい分類法が提唱された。
ア 臨床経過、予後の点より未熟児網膜症をⅠ型、Ⅱ型に大別する。Ⅰ型は主として耳側周辺に増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩除な経過を辿るものであり、自然治癒傾向の強い型である。Ⅱ型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺の無血管帯が広いものであるが、ヘイジー(hazy)のためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離を起こすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良型のものをいう。
イ 各型の臨床経過は以下のとおりである。
(1) Ⅰ型
a Ⅰ期(血管新生期)
網膜周辺、殊に耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないか、軽度の血管迂曲怒張を認める。
b Ⅱ期(境界線形成期)
網膜周辺殊に耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲怒張を認める。
c Ⅲ期(硝子体内滲出と増殖期)
硝子体内への滲出と血管およびその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。
d Ⅳ期(網膜剥離期)
明らかな牽引性剥離が認められる時期をいう。耳側の限局性剥離から、全周剥離まで範囲に拘らず明らかな牽引剥離はこの時期に含まれる。
(2) Ⅱ型(激症型、ラツシユタイプ)
初発症状は、血管新生が後極よりに起こり、耳側のみならず鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広くその領域はヘイジー・メデイア(hazy media)でかくされていることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も著明となり滲出性変化も強く起こり、Ⅰ型の如き段階的経過をとることも少なく、比較的急速に網膜剥離へと進む。
(3) 混合型
以上の分類の他に極めて少数ではあるが、Ⅰ、Ⅱ型の混合型ともいえる型がある。
(四) 本症Ⅰ型の活動期病変は自然治癒傾向が強く、八五パーセントは自然寛解し、不可逆性変化を残さず治癒するといわれ、キンゼイらの報告ではⅢ期となつた場合でも約半数は瘢痕を残すことなく完全治癒する可能性があるといわれているが、Ⅱ型は瘢痕期移行率も高く視力障害率も高い。
植村恭夫らの調査報告(文献目録46のうち宿題報告Ⅱ)によると、Ⅱ型の発症率は生下時体重九〇〇グラム以下では五〇パーセント、九〇〇ないし一、一〇〇グラムでは15.2パーセント、一、一〇〇ないし一、三〇〇グラムでは一、二パーセントであり、一、五〇〇グラム以上ではみられない。即ち、一、三〇〇グラム以下の極小低出生体重児に起こることは、網膜血管の未熟度が強く、酸素に対する感受性の最も強い時期のものにのみ発症することを示すものである。Ⅱ型の数は、一、五〇〇グラム以下の出生数が全未熟児の六、七パーセントに過ぎず、また、その約半数が死亡するため、Ⅰ型に比べ遙かに少ないものである。臨床的に遭遇するものの大部分(九三パーセント)はⅠ型と考えてよい。としている。
3 本症の発生原因
(一) 人間の胎児の網膜は妊娠三ケ月ころまでは無血管の状態で、四ケ月ころより血管形成が始まり、乳頭の硝子動脈より血管が周辺網膜に新生され、五、六ケ月より血流が認められる。血管はしだいに前方へのびてゆき、鋸状縁に向つて発育してゆく。血管の発達の程度は網膜の耳側と鼻側とで異なつており、鼻側では胎生三二週、八ケ月、耳側では三六週、九ケ月で鋸状縁に達する。従つて、妊娠七ケ月で出生したものは網膜の前方領域は無血管の状態で、出生後血管の発達が続く。このような発達途上にある網膜血管は、酸素に対して極めて敏感に反応することが知られている。そして、未熟児網膜症の病変は網膜血管の発達が遅れる耳側網膜に出現することが多い。このような未熟網膜に対する酸素の第一次的影響は、急激かつ完全な血管収縮で、これが永続すれば血管の閉塞を起こし、この部分の新陳代謝が妨げられ、第二次的に網膜の残余血管の増殖性変化が出現してくる。そして網膜周辺部では硝子体内部まで血管が増殖すると考えられている。この網膜血管は出生直後に、酸素に対して最も敏感に反応するもので、出生直後は短期間の酸素投与によつても、のちに本症を発生することがあるといわれている。そして、現在では、酸素濃度よりも動脈血の酸素分圧PO2(PaO2)に関係があるとされている。更に本症は、酸素が全く補給されなかつた未熟児にも発生するが、この場合の発生機序についてパツツは次のとおり考えている。つまり、出生して肺呼吸を始めると動脈血の酸素分圧PO2は胎内にいた時より上昇する。一方光刺激により網膜の代謝が亢進するため比較的酸素欠乏状態となる。もし、網膜血管の発育がまだ不充分で酸素に対する感受性が高ければ、本症が発生することになる、と。またアルフアノらは、子宮内で酸素欠乏や貧血があれば生後のPO2の上昇の程度は正常児と比べて相対的に大であり、これが未熟児網膜症の原因となる可能性があると推量している。奥山和男医師はこの点について、子宮内では在胎二七週の正常胎児のP2O2は三七mmHg程度であるが、空気中で呼吸している受胎後二八週の未熟児のPaO2は一〇〇mmHgに近づく。未熟な発達途上の網膜血管にとつては胎児期のPaO2値が生理的なものであり、一〇〇mmHg程度のPaO2値でも網膜障害が起こる可能性は否定できない、と述べている。
(二) 本症の発生原因、機序については、現在でも未解明の部分があるが(この点については当事者間に争いがない。)、未熟な発達途上の網膜血管が胎内環境ではなく、胎外環境の下で成育して行く過程で発生する血管増殖性の病変であり、網膜の未熟性と胎内環境と胎外環境の差を構成する諸条件が本症発生の要因をなすものと一応考えられ、網膜の未熟性については、未熟度の強いものほど重症化の傾向が強く、アルフアノは、網膜血管の酸素感受性には個体差があり、大気の酸素濃度である二〇パーセントにおいても感受性を示す網膜血管を有する群、二〇ないし四〇パーセントの濃度において網膜変化を起こす感受性を示す網膜血管系を有する群、四〇ないし一〇〇パーセントの濃度において網膜剥離まで進む変化をもたらす網膜血管を有する群の三群にわけており、植村医師は、これらの差は網膜血管の未熟度の差によるものであるとしている。
(三) 本症は、この網膜の未熟性を表わす最も重要な因子である生下時体重、在胎週数の小さいものほど発生しやすく、統計的には生下時体重一、六〇〇グラム(一、五〇〇グラムとする者もある。)以下、在胎週数三二週以下のものに圧倒的に多いとする報告が多くなされている。もつとも大島医師は、重篤の網膜症が多いのは一、五〇〇グラム以下とは限らず、生下時体重一、五〇一ないし一、八〇〇グラムでも高度の網膜症が多いと報告している。
(四) また奥山医師は、同じ程度のPaO2値に保たれても、RLFを発生するものと、しないものがあるが、これを説明するために二つの因子があげられる。一つは網膜の未熟性であつて、網膜が高度に未熟であればPaO2が正常に近い値に保たれていても網膜変化が起こる可能性がある。最近極小未熟児の生存例が増加したが、これとともにRLFが増加するかも知れない。もう一つの因子は交換輸血である。未熟児の有するヘモグロビンの大部分は胎児ヘモグロビンであるが、交換輸血が行われれば成人ヘモグロビンに置換され、ヘモグロビンの酸素解離曲線に変化が起こることになる。胎児ヘモグロビンは成人ヘモグロビンよりも酸素に対する親和性が強いことを示す。交換輸血により成人ヘモグロビンが増加すれば、ある一定のPaO2で組織より多くの酸素を放出することになり、網膜障害が起こりやすくなるかも知れない。最近、交換輸血とRLFの発生に関係が認められたとの報告があり、RLF発生の促進因子として交換輸血を検討する余地がある。と述べている。
4 本症の治療法
(一) かつては、薬物療法(ACTH、副腎皮質ホルモン等の投与)が行われていたが、現在ではその効果は否定的に解され、むしろその副作用の方が問題視されている。
(二) 本症に対する治療法として現在最も有力視されているのは、光凝固法および冷凍凝固法である。これは、進行しつつある網膜および血管を破壊して増殖傾向を阻止する方法であり、その治療の時期と方法を誤らなければ、本症に対する最善の治療法とされている。しかし、比較的急速に症状が進行する前記の激症型(ラツシユタイプ)の場合ではその適応時期を失することが多く、またその他の場合でも、右治療効果が絶対確実であるとはいい難く、治療後その未熟児が成長したのちに治療そのものによる悪影響の発現を心配する向きもあり、全く問題がないわけではない。
(三) 右光凝固法、冷凍凝固法のいずれも、本症の初期の段階(その具体的時期については多少見解の相違があるが、オーエンス活動期Ⅱ期の終わりかⅢ期の初めとされている。)で施行されなければ効果はないので、その早期発見のために定期的眼底検査が必要である。
四原告美穂の診療経過と本症羅患原因
1 原告美穂が昭和四七年二月二日午後八時一五分ころ、八幡病院に転院して来たので、同病院小児科医今井義治は直ちに原告美穂を保育器に収容し、酸素を一分間に二リツトルの割合で投与し、翌三日午後八時三〇分に投与を中止し、同月四日午後三時三〇分ころ、核黄疸防止のため新鮮血の交換輸血を実施したこと、同年三月三〇日までは保育器に収容していたが、同月三一日から漸次器外環境に順応させるため、数時間づつ器外で保育し、同年四月四日以降同年五月一五日に退院するまでの間は完全に器外で保育したこと、同年七月一一日同病院眼科委託医原駿が原告美穂の眼底検査を行い、左眼に未熟児網膜症の疑いがあると診断し、同月二五日には同眼とも未熟児網膜症と診断し、同日小倉病院に転院させたことは当事者間に争いがない。
2 <証拠>によれば、以下の事実が認められる。
(一) 八幡病院に入院した昭和四七年二月二日午後八時一五分ころの美穂の状態は、体重一、四一〇グラム、呼吸は規則正しく、口腔粘膜・頭部は浮腫状、胸骨部陥没で呼吸は深いがチアノーゼはなく、趾指の爪は長く、黄疸があり、低体温であつたので、今井医師は突発的な事故を予防するため保育器に収容し毎分二リツトルの割合で酸素の投与を指示したが、その後もチアノーゼや無呼吸発作がなかつたため、三日午後八時三〇分まで約一日間の投与で中止し、翌四日には黄疸の症状が強くなつてきたため二〇〇ccの交換輸血をしたところ、皮膚黄疸はやや軽減し、その後新生児反射も異状を呈することなく軽快し、体重も順調に増加していつた。
(二) 美穂が完全に保育器から出る前日の同年四月三日の回診後、今井医師は眼科医原に対して「妊娠三一週で未熟児ですが眼科的には異常はないでしようか。生後五日目、交換輸血しています。」と記載した紹介状を書き、翌日小児科の看護婦が小児科のカルテとともに、原告美穂を眼科に連れて行き、その後四月一一日、五月九日にも原医師に眼底検査の依頼をしたが、いずれもその結果は今井医師に連絡がなかつた。
(三) 五月一五日の退院の際、今井医師は、原告美穂の両親に対し、二週間後に乳児検診に来るように指示し、五月三〇日に原告美穂が検診に来た際、原告俊子から、目に斜視の異常がないか尋ねられ、「眼科に診察を依頼しているが返事がないし、私も気になるので再度紹介状を書きましよう。」と答え、二週間後に眼科に紹介状を書くので再度乳児検診に来るようにと指示し、六月一三日に眼科に対して二回目の紹介状を書き、それにより六月一三日、同月二七日、七月一一日、同月二五日と、原告俊子らが原告美穂を八幡病院の眼科に連れていつたが、六月一三日、同月二七日の受診の結果は今井医師に対して報告されていない。
(四) 小倉病院眼科医栗本普二は、七月二八日に原告美穂を診察し、光凝固による治療の効果は全く期待できないと判断したが、本症の瘢痕より他の病気が続発することを防ぐために光凝固を施行した。
3 そこで、以上認定の如き診療経過に、<証拠>および先に説示した本症の発生原因に関する諸説を参酌して考察すれば、原告美穂が本症に羅患したのは、少なくとも同女の網膜の未熟性を素因とすることは明らかであるが、その誘因としては、おそらく、右網膜に酸素療法によつて投与された酸素のみならず、大気中の酸素までもが作用した結果によるものではないかと考えられる。
五被告の使用者責任
1 医師の過失の判断基準
医師は、人の生命、身体の管理をするために医療行為という特殊で重要困難な職務に携わるものであるから、医療の専門家として、日々進展向上してゆく医学の業績を消化吸収することにより、ある疾患について、自己のおかれている状況下でその当時とりうる最高の医療行為が何であるかを正確に把握した上で、治療行為にあたるべき注意義務があることは多言を要しない。そして、右注意義務の程度ないし過失の有無の判断は、治療行為のなされた時点における医学水準を基準としてなされるべきであるが、ここでの医学水準は学界や研究室を経由した実践としての臨床医学における水準(医療水準)であるから、過失の認定にあたつては、まず当該治療行為の実践程度を重視し、その上で当該医師の専門分野およびその隣接分野における水準的知識、当該医師のおかれている社会的・経済的・地理的諸環境(診療機関が学術的中心地に近い大学病院であるか。国公立の総合病院であるか、普通病院であるか、個人開業医の診療所であるかなど)を相関的に考慮しなければならず、右の諸環境につきより優位の立場にある医師ほど、より高度の注意義務が要求されるべきであるのは、けだし当然のことといわなければならない。
2 わが国における昭和四七年一月当時の医学および医療水準
(一) 昭和四七年一月当時までに発表された文献
別紙文献目録記載の各書証および弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 水川孝が、昭和二九年四月一日発行の「総合臨床」三巻四号において「Retrolental fibroplasia」、昭和三〇年二月一五日発行の「臨床眼科」九巻二号において「後水晶体線維増殖症とその成因に対する考察」と題する各論文を発表して、後水晶体線維増殖症四例を紹介し、弘好文が昭和三〇年一一月一日発行の「小児科診療」一八巻一一号において「乳幼児視力障害と酸素吸入」と題する論文を発表して、水晶体後線維増殖症の問題にふれているが、いずれも眼科医による関心を呼ぶには至つていない。
(2) 当時慶応大学病院所属であつた植村恭夫医師は、昭和四〇年六月一日発行の「小児科」六巻六号において「小児疾患と眼底所見」と題する論文を発表し、慶大眼科外来を訪れる患者のうち本症患者の数が次第に増加し、昭和三九年には一〇例の瘢痕期症例があつた事実を指摘し、本症の発生は、その殆んどが生後三ないし五週ころに起るものであり、酸素療法が本症の発生に重要な関係がある点は異論がないと述べ、本症の発生原因を説明し、スチユーツイク、オーエンスの各分類法を紹介している。更に、欧米諸国は未熟児の眼科的管理に多大な努力を払い、未熟児には生後より一週一回の眼底検査を今や日常必須の検査として行い、RLFの対策に多大の努力を払つている。本症は瘢痕期に至り両眼失明、弱視となつてからでは如何なる治療法も奏効しない。未熟児センターの眼科的管理は、これより更に数を増加すると思われるセンターの発展を考えると、現在その対策を確立しない限り、今後多くの失明児または弱視児を世に送り出すことになる。未熟児はたとえ、二、三日であつても酸素療法による障害を蒙ることも忘れてはならない。本症の治療は、活動期の可逆性のある時期に発見して、適当の酸素供給、ACTH、副腎皮質ホルモン剤投与で治療しうるものであり、瘢痕期になつてからでは、全くの手の施しようがない。その鍵は、一にかかつて生後より三ケ月迄に反復する眼底検査にほかならない。と述べて小児科医の注意を喚起した。
なお現在では、右ACTH、副腎皮質ホルモン剤投与は本症の自然治癒と有意差がなく、治療方法としてはほぼ否定されている。
(3) 昭和四一年発行の「小児の眼科」植村操他編集の中の「水晶体後部線維増殖症または未熟児網膜症」と題した論文の中では、本症の原因が酸素の過剰使用によることが判明し、酸素療法の制限によつてその数は急激に減少してきたことは確かであるが、本邦では少数ではあるが失明をもたらす重症例があとをたたず、また軽度の瘢痕を残し、弱視となつている例も少なくない。本症の発生は殆んどが生後三ないし五週ころに起こるものである。また未熟児だけでなく成熟児の中にもまれながら発生するし、未熟児では、二、三日の酸素療法でも、更には酸素を与えなくても発症する例がある。従つて、RLFは酸素療法の制限で解決したと断定するのは早計である。未熟児が発生する限り、つねにRLFが起こりうることを念頭におく必要がある。と述べられており、オーエンスによる臨床経過の紹介と活動期Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ期と末期の各眼底所見が具体的に図示されている。更にその予防および治療に関して、未熟児は、たとえ二、三日であつても、酸素療法による障害を蒙ることも忘れてはならない。すべての未熟児室には、眼科医による一、二週ごとの定期的眼底検査の施行が必要である。殊に入院時、酸素療法開始時、終了時は必ず眼底所見を記載しておく必要がある。この眼底検査は少なくとも三ケ月間は行い、その後六ケ月までは一ケ月ごとに検査を続ける。本症の治療は、上述の定期的眼底検査によつて、活動期の可逆性のある時期に発見し、適当な酸素供給、ACTH、副腎皮質ホルモン剤の投与を行うことによつて治癒せしめうるものである。このようにRLFは減少してきたとはいえ、未熟児が出生する以上、その危険性は絶えずつきまとうものであり、自覚的訴えをもたず、また外部よりは判らない本症を早期に発見するには、未熟児室は必ず眼科的管理を怠つてはならない。もしこれを怠り、失明児、弱視児を出したとなれば、管理医師の無責任のそしりは免れないであろう。と述べられている。
(4) 当時国立小児病院に勤務していた植村医師らは、昭和四一年五月一五日発行の「臨床眼科」二〇巻五号において、「未熟児の眼科的管理の必要性について」と題する論文を発表し、そこで未熟児眼障害のうちで最も注意すべきものは水晶体後部線維増殖症であることはいうまでもない。本症は眼科、小児科、産科の境界領域の問題の一つであり、乳児失明の一因となり、かつまた社会的、教育的弱視の一因となるもので、その意義は重大であるにも拘らず、関係各科の連係の不良およびそれに対する関心の薄さは反省せねばならぬ問題といえよう。と医師の関心の薄さに警告を発し、未熟児の眼科的管理については、RLFの発生の最も危険がある生後より三ケ月までの間に重点がおかれる。未熟児室にある間は一、二週ごとに定期検診を行う。生後三ケ月まで眼底が正常であれば一応RLFの危険はないので検査を中止するが、若しRLFの疑い、あるいは発生を認めたら、隔日に眼底検査を繰り返す必要がある。と述べ、昭和四〇年四月一六日生れの未熟児の活動期の症例を眼底所見を加えて紹介しており、更に瘢痕期症例を三例紹介しているが、そのうちの一例は、生下時体重一、九〇〇グラムで保育器にも入らず、酸素療法も受けていないものである。続いて同論文は、適正な酸素使用にも拘らず、本症は、その数は少ないとはいえ、発症していることは明らかな事実である。われわれ眼科医は徒らに手をこまねいて、これら治療時期を失つた症例を単に検査したり、調査したりするにとどまつてはならず、積極的に早期発見、早期治療にのりだすべきであると考える。その具体策の一案は、著者らの行つている小児科医、眼科医が一体となつて行う管理であろう。本症の治療には、副腎皮質ホルモン剤、ACTH、蛋白同化ホルモン等の使用が有効であるとの報告がなされているが、自然寛解が多いために、どの程度有効なのか、また他に有効な治療法がないか、今後検討すべき問題である。と述べている。
(5) 更に植村医師らは、昭和四二年八月発行の「医療」二一巻八号に「未熟児網膜症に関する研究」と題する論文を発表し、国立小児病院未熟児病棟において、昭和四〇年九月より昭和四一年八月までの一年間に眼科的管理により観察した活動期症例により調査した結果、未熟児七八例中一三例に本症が発生し、八例は自然または治療により寛解し、五例は瘢痕を残し、一三例中初期変化にとどまつたものが八四パーセントを占め、Ⅰ期では87.5パーセントが自然寛解をみた。Ⅱ期以後に進行したものは治療によつても瘢痕を残した。と発表し、未熟児でも生下時体重二、〇〇〇グラム以上は殆んど成熟眼底に近いもので、成熟眼底を第一回の眼底検査より認めたら呼吸障害等の異常のない限り、本症発症の危険なしとみて定期的眼底検査より除外してもよいが、一、九〇〇グラム以下特に一、五〇〇グラム以下は、殆んど未熟眼底を示すもので、一週ごとの定期的眼底検査は必要であり、殊に酸素療法の中止期は注意深い検査が必要である。未熟眼底の特徴的所見は、①乳頭は著しく蒼白で、細長型又は腎臓型を呈している。②眼底は検眼鏡視野内において、部分的にしか焦点があわず、そこにみられる血管特に動脈は狭細であり、その走行は縦高に走る。③周辺殊に耳側周辺網膜は灰白色あるいは蒼白色を呈している。④著名な硝子動脈遺残がある。としている。ここにおいても同医師らは、後部水晶体線維増殖症の名称にとらわれ、瘢痕Ⅴ度のみを本症と診断している現況では、本邦では本症は殆んど数少ないものとされている無関心さも当然のように思われる。従つて、現状を把握するためには、活動期よりその経過を観察し的確なる診断のもとに、本症の実態を把握すべきである。そのためにも定期的眼底検査の意義は大きい。と述べている。更に昭和四〇年一一月より昭和四一年四月までの六ケ月間に国立小児病院眼科外来を訪れた本症瘢痕期症例が四〇例あり、うち七例のみが、かろうじて普通学級に進学しうる視力を維持しえているが、三三例は盲または弱視教育の対象となつている。また酸素不使用例にも軽症ながら三例の発症を認めた。と報告し、最後に、現時点では未熟児の眼底管理を徹底し、活動期症例の治療法の研究、瘢痕期症例に対する社会的教育、リハビリテーシヨンの道を確立していく必要がある。としている。
なお、右論文によれば、国立小児病院においては、昭和四〇年九月より未熟児に対する定期的眼底検査が行われていたことが認められるが、右論文の内容からみて、右定期的眼底検査は本症活動期の実態を把握することが主たる目的で、本症に対する有効な治療法と結びついたものではなかつたことが窺える。
(6) 九州大学小児科学教室高嶋医師らは、昭和四三年一月一日発行の「小児科診療」三一巻一号に「退院時における未熟児眼底検査とその意義について」と題する論文を発表し、右小児科学教室の未熟児室では、昭和三六年より本症の発見を含めた眼障害を早期に発見する意味で、退院の際、眼科を受診させ、眼底検査を中心とした眼科的一般検査を行い、検査を受けた二〇一例中二例に本症を発見したとし、その二症例を紹介し、後水晶体線維増殖症については、多数の論文があるが、原因、治療については未だ充分な結論が得られていない。RLFの原因には種々の説があるが、酸素環境と未熟児眼底血管の未熟症、ないし感受性が最も重視されている。クベーゼの中の酸素濃度が低くてもRLFが発生すること、片眼のみに症状を残している症例があることは未熟児側に重大な素因があると考えられる。治療は活動期の網膜浮腫や網膜剥離のような進行性所見がみられれば早期に開始した方がよい。本症は線維形成ができたものはもはや瘢痕として残るため、それ以前にできるだけ早期に診断し、早期治療をしなければならない。治療法はまだ充分とはいえないが、ACTH、副腎皮質ホルモン等が報告されている。とし、最後に、未熟児には、いろいろの重要な疾患があるので退院時のみではなく、一、二週ごとの定期的眼底検査を行い、眼科的管理を行う必要がある。と述べている。
(7) 天理病院眼科の永田医師は、昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号に「未熟児網膜症の光凝固による治療」と題する論文を発表した。
右論文によれば、永田医師他四名は、昭和四一年四月に同病院が開設されて以来、小児科未熟児室において、総数四六名の未熟児を扱い、生存例三六名中三一名について眼科的管理を行つてきたが、そのうち生下時体重一、四〇〇グラムおよび一、五〇〇グラムの特発性呼吸障害症候群の未熟児二名に、やむをえず行つた酸素供給を中止した後、次第に悪化する本症活動期の病変を発見し、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が硝子体内へ進出し始めて増殖性網膜炎の初期像をとつてきた時点、即ち自然寛解の望みがたいⅡ期の始まつたところで、それぞれ昭和四二年三月二四日(生後八一日目)および五月一一日(同七七日目)に網膜周辺部の血管新生の盛んな部分に対して全身麻酔下に光凝固を行い、頓挫的に病勢の中断されることを経験したこと、その後の観察により眼底は周辺部の光凝固の瘢痕以外はほぼ正常であることを報告し、更に同病院の眼科的管理については、一応未熟児全員について行うこととし、このうち未熟度の強い眼底所見を呈するものは定期的に眼底の精査を行うようにしていること、眼底検査にはミドリンPを二回点眼し充分敢瞳してから、バンガーター氏小児用開瞼器を用いて開瞼し、倒像検眼鏡を用い、三パーセントコンドロン液を点下しつつ眼底周辺部まで充分な検査を行うこと、本症の活動期症状の早期発見と経過観察には特に眼底周辺部の精細な検査が必要であり、乳頭周囲とか赤道部までの眼底検査では満足すべきではない。と述べている。更に光凝固を行つた二症例の経過を詳細に説明した上、光凝固の部位を図示している。また酸素を使用しなくてもザカリアス、植村医師の指摘するとおり、ある一定の頻度で未熟児網膜症は必ず発症するのであり、そのうち不幸な一部が重症瘢痕期に移行していくことも厳然たる事実だとし、光凝固治療を本症に試みた理由としては、我々は、昨年以降イールズ氏病を始めとする多数の網膜血管病変に光凝固治療を行い、網膜血管病変のあるものに対して光凝固が真に偉大な効果を発揮することを驚異の念をもつて観察してきた。従来の姑息な治療ではどうしても出血の再発を防止できなかつたイールズ氏病が、光凝固の応用によつて、出血と増殖性変化の悪循環を断ち切られて完全に治療する事実は、血管性病変における光凝固療法の偉力をわれわれに深く印象づけてきた。従つて、未熟児網膜症活動期重症例をその比較的早期にとらえて眼底周辺部の異常網膜組織と過剰な新生血管を光凝固で破壊することは、イールズ氏病の光凝固による治療と類同の病勢の頓挫を本症にもたらしうる可能性があると考えたからである。としている。結語として、本症には自然寛解があり、光凝固施行の時期には問題があると思われるが、充分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行えば、あるいは重症の未熟児網膜症に対する有力な治療手段となる可能性がある。と述べている。
本症に対する光凝固法の施行は、永田医師によるものが世界最初のものでこの発表によりその数多くの追試が行われることになる。
(8) 永田医師は昭和四三年一〇日発行の「眼科」一〇巻一〇号に「未熟児網膜症の光凝固による治療の可能性について」と題する論文を発表し、前記(7)の光凝固施行例を紹介し天理病院の未熟児管理の実際については、眼底検査は七ないし一〇日に一回行い、初回診察時に未熟眼底を示した例では酸素供給の有無に拘らず、定期的に眼底所見を追跡する。生下時体重二、〇〇〇グラム以上で酸素を使用せず初診時正常新生児眼底を示したものは、その後の検査から除外する。未熟網膜症活動期の病変は、網膜血管の末梢部特に耳側に多く始まるから、未熟児の眼底検査には倒像検眼鏡が是非とも必要である。と述べ、未熟児発生の実態に関しては、昭和四一年八月から昭和四三年一月まで同病院で扱つた本症例を分類した結果を表示しているが、その中で背椎変形と脳性小児麻痺の一例は在胎日数一〇ケ月で体重も比較的大きく、酸素使用数も一回であるにも拘らず網膜症を発症した例があつたため、酸素使用の長短、有無に拘らず未熟児の眼底管理の必要なことを示しているとしている。更に光凝固実施の意義については本症の病理学的変化を、未熟な網膜において成育途上にある血管が酸素濃度の異常な上昇によつて閉塞し、これが正常な酸素環境にもどされることによつて血管抹消部に相対的な無酸素状態が起こり、その結果低酸素状態に陥つた網膜と正常な部位との境界にある網膜血管より過剰な血管増殖が生じ、これが線維性組織の形成を伴い、のちにこれが硝子体中に増殖し、出血、網膜剥離などを起こすに至るものとして捉え、光凝固によつて新生血管とともに異常な網膜を破壊すれば、この部に至る網膜血管は、血管の増殖傾向に対する刺激から開放され、増殖性変化に伴う悪循環が断ち切られる可能性がある。と述べ、また光凝固の実施の時期に関しては、本症は自然治癒傾向が強く、自験例でも七五パーセントはⅠ期ないしⅡ期で自然寛解を起こし、Ⅲ度以上の瘢痕を残すことなく治癒していること、キンゼイらがⅢ期でもその半数は正常にまで回復するとの報告を行つていること、植村らの報告のよれば、Ⅱ期で副腎皮質ホルモン療法を行つても眼底周辺に何らかの瘢痕を残すことが指摘されていることを考慮し、光凝固を実施した二例においては、たとえ当該時点で自然寛解が起こつたと仮定しても、おそらくⅢ度の瘢痕を残すことが必至と考えられる程度の病変が認められ、かつこれ以上本症が進行して網膜剥離が起こつた場合、光凝固はおそらく不可能になるであろうと想像されたところから、Ⅲ期に突入した時期に実施を決意した。と述べ、光凝固による副作用については、発育途上の網膜に四分の一周とはいえ、かなり広い範囲の人工的瘢痕を作ることが今後の眼球の発育に影響がないかどうかは今後の経過観察に待つ他ない。としている。最後に、光凝固による治療は、従来この様な場合に全く無力であつた本症の治療面に少なくとも一つの可能性を示す事実があるということはできよう。また、もし光凝固法が本症の真に有力な治療手段になるとすれば、その治療の成否を決定する最も重要な要因は施行の時期であつて、これには定期的な眼底検査、それも網膜周辺部の充分な経時的観察が必須の要件となることは申すまでもない。今後わが国においてすべての未熟児管理施設における完全な意味での眼科的管理が実施される事を祈る。と述べている。
(9) 永田医師他一名は、昭和四五年五月発行の「臨症眼科」二四巻五号に「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅱ」と題する論文を発表し、そこにおいて、前記二症例の他に、昭和四三年一月から昭和四四年五月末日までの間に更に天理病院未熟児室で発症した二例と、他院より紹介された二例の合計四症例に光凝固をし、その病期で病勢を停止せしめることができたことを報告し、右期間中の未熟児網膜症の発生状況について、生存例五三例中八例に活動期病変を発見し、うち二例がオーエンスⅢ期に入り、その後も進行が止まらなかつたので光凝固を加えたが、この二例は、いずれも生下時体重一、五〇〇グラム以下で、うち一例はわずかに二日間しかも低濃度の酸素を使用したに過ぎないこと、酸素使用日数別にみると、一ないし五日使用群で網膜症が四例発症し、うち一例はオーエンスⅢ期となつたことは、酸素使用日数が比較的短くても重症網膜症が発生していることを示している。と述べている。更に、考按として、オーエンスⅡ期で網膜周辺部の灰白色限局性隆起を生じ、その後自然治癒していく症例をみていると、この隆起部をこえて、網膜血管が鋸歯状縁に向つてのびはじめるとともに、この滲出性隆起は低く薄くなり、まもなく消失する。これに反して光凝固をした症例では、灰白色隆起がしだいに高くなり、これに向つて新生血管がはい上がるように増殖し、この部より鋸歯状縁に向つて、全く血管を認めぬ無血管帯が存在し、この灰白色隆起が有血管帯と無血管帯との境界線(demarcation line)を形成していくのがわかる。このような例では副腎皮質ホルモンその他の治療剤に対して全く反応するようすがなく、静脈うつ血がますます強くなつて病勢はとどまるところを知らぬように進展していくのがみられた。われわれが光凝固をしたのは、すべてこのようなⅢ期の時期である。前報の症例を含めた六例の光凝固実施の時期は生後五三日から八四日の間にわたつている。網膜周辺部の症状が明らかとなつてくるのは、生後三〇日から四〇日位で、これらの症例では一般状態が悪く、保育器から出た時に第一回の眼科検診をしているのであるが、この時既にオーエンスⅠ、Ⅱ期の病変の出現しているものもあるので発症はもう少し早いときもあると考えられる。しかし光凝固の時期から逆算すると、生後三〇日目ころには、このような重症状滲出病変はまだ現れていないのが普通で、眼科検診は生後三〇日目ころから始めても遅過ぎることはなく、むしろこの時期以降一、二ケ月の観察が最も大切である。未熟児の出生後一ケ月以内の眼底検査はかなり困難で、周辺部網膜は灰白色浮腫状に混濁し、網膜血管はむしろ狭細していることが多い。従つて生後一ケ月までにオーエンスⅢ期の変化を現わすことはまずないと考えてよい。網膜周辺部の本格的な検索は生後一ケ月以降二ケ月間に主力を集中すべきである。網膜周辺部血管にうつ血、新生血管などの異常を発見したならば、場合によっては週二回の監視が必要と思われる。個々の症例によつて網膜症の程度に軽重の差があると思われるので一概にはいえないが、生後五〇日からの一ケ月間が網膜症活動期病変の最盛期と考えられ、この問の網膜症進行の速度は恐るべきものがあり、しかも後極部に異常が発見できるのは病期がかなり進行した時であつて、われわれが光凝固を行つた時期でも後極部のみをみれば、網膜中心静脈の充血以外はほぼ正常に近い眼底所見を呈しており、網膜症の実態を理解せず簡単に検査すれば看過される危険性が大きい。六例の治療経験から重症未熟児網膜症活動期病変の大部分の症例は適切な時期に光凝固を行えば、その後の進行を停止せしめ高度の自然瘢痕形成による失明又は弱視から患児を救うことができることはほぼ確実と考えられるようになつた。しかしこの治療法を全国的な規模で成功させ、わが国から未熟児網膜症による失明例を根絶するためには、幾多の困難な事情が存在する。まず第一に未熟児網膜症活動期病変の実態とその意義をすべての小児科医、産科医、眼科医が充分に認識して熱意をもつて未熟児の眼科的管理を行う必要がある。第二に眼科医が生後一ケ月から三ケ月までの最も危険な時期における網膜周辺部の観察を行うことである。決して直像鏡のみによる眼底検査で満足してはならない。第三に未熟児網膜症の活動期病変を発見したならばその病変の経過を注意深く追い、オーエンスⅢ期に突入して進行をやめぬ場合には時期を失わぬうちにみずから光凝固を行うか光凝固実施可能な病院に紹介すべきである。と述べ、最後に、本症の活動期病変重症例では、自然の経過のまま放置すれば重症の瘢痕を残して失明あるいは高度の弱視を招くことは明確な事実と思われるので、これに光凝固を施行して治癒せしめうることが明らかになつた以上、本治療法が今後全国的な規模で積極的に採用されることを希望してやまない。と結んでいる。
(10) 更に永田医師は、昭和四五年一一月一五日発行の「臨床眼科」二四巻一一号に「未熟児網膜症」と題する論文を発表し、未熟児網膜症発生の実態と光凝固治療成績として、昭和四一年八月から昭和四五年六月末までに天理病院未熟児室に収容された生存未熟児一五八例中二四例一五パーセントに活動期病変を発見し、うち五例と他院からの紹介患者七例の合計一二例に光凝固の治療を行つた結果、同病院で管理していて発症した五例は、いずれも一回の光凝固で後極部に何らの瘢痕を残さず治癒し、他院よりの紹介患者七例のうち一例は活動期Ⅳ期に入つており光凝固を行つたが無効に終り、他の一例は一眼Ⅴ期で光凝固不能、他眼はⅣ期で光凝固後瘢痕期Ⅲ度の変化を残し、他の一例はⅢ期よりⅣ期への移行期と思われたがⅠ度の瘢痕を残して治癒し、他の四例はいずれもⅢ期で光凝固を施行し後極部に瘢痕を残さず治癒している。即ち活動期Ⅲ期までに光凝固を施行した一〇例では全例後極部に殆んど瘢痕を残さず治癒しているので、おそらく有用な視力を保つものと思われる。とし、前記期間中の本症疾患の分類をした結果、酸素を全く使用しなかつた症例でも軽症の網膜症を発生し、一ないし五日使用例でかなりの数の発症をみている。そのうち一例では光凝固を行つているので、酸素使用日数が少なくても重症の網膜症が発生しうることを示している。と述べている。また、未熟児の眼底検査に関しては、活動期病変の早期発見と追跡には倒像検査が絶対要件である。直像検査は、殆んど不必要といつてよい。直像検査で本症の初期病変を早期に発見することは不可能ではないとしても極めて困難である。とし、未熟児網膜症各期における検査の要点としては、症状の発現から瘢痕期が始まるまでの期間の眼底病変の進展は、かなり速やかであるので、眼底検査は少なくとも週一回は行う必要がある。われわれの経験した症例では、本症Ⅰ期の変化の次にみられる特徴ある所見は、無血管帯と網膜血管末梢の境界に灰白色の所々に突出、湾入のみられる滲出性の境界線が出現することで、われわれはこれをdemarcation lineと呼んでいる。この境界線が現われていることは網膜症進行の明らかな徴候であるので、追跡の間隔は必ず週一回として警戒を怠つてはならない。われわれはこの灰白色の境界線が明らかになつた時期をⅡ期、新生血管より硝子体中への滲出が始まり、灰白色境界線の赤道部への明らかな進出が起こつてきたときをⅢ期と考えたい。われわれはこのⅢ期の始まりを光凝固の適期と考えており、事実この時期を越したと考えられる患者では、光凝固によつて治癒してもある程度の瘢痕を残しdemarcation lineが網膜全周に認められ、Ⅳ期と考えられる進行例では光凝固は全く無効であつた。リースらの分類によるⅢ期よりⅤ期に至る時間は極めて短く、おそらく三、四週間程度と考えられる。また光凝固が効を奏するか、あるいは無効に終わるかの境界もきわめて短期間であつて、せいぜい一、二週間の差で明暗所をわかつことになるので、この時期における眼底検査は週二回行い、自然寛解を見逃さぬよう、また光凝固の適期を失わぬよう注意しなくてはならない。と述べている。更に治療について、光凝固は現在本症の最も確実な治療法ということができる。凝固部位はdemar-cation lineを中心にその周辺の無血管帯、中心側の血管増殖部を二、三例に凝固する。無血管帯は全幅鋸歯状縁まで凝固する必要はないが、広い場合は二例ほどは凝固しておいた方がよい。demarca-tion lineのみを凝固して軽快はしたが、その周辺に更にdemarcation lineが生じ、二回の光凝固を必要とした例がある。しかし一般に適切な時期に光凝固を行えば、その効果は劇的で一週間経過すると眼底所見は殆んど信じられないほど軽快し、二週間で完全に治癒する。網膜血管は光凝固の瘢痕を越えて鋸歯状縁に達し、後極部は全く正常に保たれる。本療法を行つた第一例は既に三歳になつているがほぼ正常の視力を保つているようである。現在光凝固装置は既に相当台数全国的に設備されている。これを各地区ごとのブロツクにわけ未熟児網膜症治療のネツトワークを作れば、本邦から未熟児網膜症による失明例を根絶することも夢ではない。必要なことは眼科医、小児科医の熱意であり、行動力であると思われる。と述べている。
(11) 国立小児病院奥山和男は、前記昭和四五年一一月一五日発行の「臨床眼科」二四巻一一号において「未熟児の管理」と題する論文を発表し、近年hypoxiaを救うために充分な高濃度の酸素投与が行われるようになつて未熟児網膜症の発生が再び問題となつてきたと述べ、未熟児網膜症の発生は環境の酸素濃度ではなく網膜の動脈血のPO2に関係があると報告されているから、未熟児網膜症の予防のためには、動脈血のPO2を安全限界に保つべきことが強調されており、動脈血PO2がおよそ五〇mmHg以下ではチアノーゼが出現し、寒冷に対する代謝反応が障害されることから、五〇mmHg以上に保たねばならないことは明らかであるが、安全の上限はまだ不明である。としている。
(12) 東京都心身障害福祉センターの山本裕子医師は、昭和四六年一月二〇日発行の「日本眼科学会雑誌」に「未熟児網膜症による失明児」と題する論文を発表し、最近数年間に東京都内の乳児失明が激増した。その原因の多数を占めるものは未熟児網膜症で、昭和四三年五月より昭和四五年四月までの二年間にセンターを訪れた就学前の視覚障害児一四一名のうち八二名、五八パーセントが本症によるものである。
この未熟児網膜症による盲児に対するリハビリテーシヨンは植村医師の指摘の如く非常に重要な問題であり、現実に大きな社会的関心が払われるに至つている。と述べ、同医師らの調査の結果、昭和四三年から昭和四五年当時都内盲学校在籍の盲児の未熟児網膜症の数より、就学前の未熟児網膜症による盲児の数が多く、就学前の本症による盲児の中では年令の低いほどその数が増加していることを報告し、このことは未熟児網膜症が酸素療法の適正化によつて減少し、過去の疾患と考えることの誤りを示すものであり、現在もなお、そして年々更に増加の傾向を示しており、失明防止の観点からは、今なお重大な問題をかかえた疾患としてとりくまねばならないことを示すものだ。としている。更に、調査した八二例の未熟児網膜症児のうち、二八週以上三二週未満のものが五一例と最も多いこと、生下時体重では一、三〇〇ないし一、三九九グラムが二〇例で最も多く、一、六〇〇ないし一、六九九グラムでも四例があつたことを表示して、未熟児網膜症が生下時体重一、五〇〇グラム以下で在胎期間の短いものに多いというこれまでの多くの報告と一致する。と述べている。
(13) 関西医科大学上原雅美他二名は、昭和四六年四月一五日発行の「臨床眼科」二五巻四号において「未熟児網膜症の急速な増悪と光凝固」と題する論文を発表し、未熟児網膜症は、われわれの昭和四二年三月から昭和四五年六月までの三年三ケ月二六二例の観察では二四例9.2パーセントの頻度で発生している。その大部分は軽症であり、重篤な後遺症を残さず自然に治癒してゆく。しかし一部少数例には進行性のものもあり、かかる症例の自験例二例、他の病院から紹介された三例について永田の提案に従つて光凝固を行つたので報告する。と前置きに右五症例を紹介した上、われわれは経験から、よく管理された未熟児室においても若干の未熟児網膜症が発生しており、その一部はたとえごく少数ではあつても、放置すれば比較的重症な瘢痕を残す例があることを知つた。また他の病院においてもこのような重症例があることを知つた。かかる重症例に対しては従来確実な効果を示すものではなく、副腎皮質ホルモン、血管拡張剤の効果も極めて疑わしい。昭和四三年永田の提案した光凝固法は、同氏の示したすぐれた結果と、また種々の網膜血管症に対する光凝固法の有効性に関するわれわれの経験を考え合わせてその有効性を推定し、われわれも追試した。追試の結果は永田の示した結果にほぼ近い結果を得た。即ち、時期を選んで光凝固法を行えば、放置すれば重症な瘢痕を残したと推定される症例に対しても、確実にその進行を阻止しうるが、時期を失して進行したものに対しては無効である。しかも重症例はわずかの期間に急速に進行して、光凝固の時期を失するので甚だ厄介で、速やかな光凝固施行の決断と、そのための準備の完了が必要である。われわれの経験から、オーエンスⅡ期のものは大部分あとに重症な瘢痕を残さずに自然治癒するが、Ⅲ期に入ると重症な瘢痕を残す可能性が大きいので、Ⅲ期に入れば速やかに光凝固を行うように心掛けることとした。これは永田の結論とほぼ同じである。オーエンスⅡ期までは経過観察を行いつつ自然寛解を待ち、自然寛解の傾向がなく増悪傾向のあるものには観察日の間隔を短縮して監視し、光凝固の準備をすませて待機し、オーエンスⅢ期に入る傾向を示せば光凝固を行うことを一応の目標としている。と述べている。
この論文の内容は「臨床眼科」二五巻四号で発表される以前に学会で報告されたものであるが、その際の質疑応答によれば、当時、上原医師らの他斎藤医師、鶴岡医師、丹羽医師らが光凝固の追試を行つており、斎藤、山下両医師は冷凍療法を本症に試みたことが窺われる。
(14) 九州大学医学部眼科教室の大島健司他五名は、昭和四六年九月「日本眼科紀要」二二巻九号において「九大における未熟児網膜症の治療の問題点」と題する論文を発表し現在わが国において本症による失明児がしだいに増加の傾向にあることは、既に植村らが警告している。ただ幸いにも、最近本症に対する治療法として光凝固術が永田により始められ、その後各地で追試されその効果が確認されているので、眼科医や小児科医の間で、この問題についての関心をよび起こし、未熟児の眼底検査の普及習熟未熟児室退院後の追跡調査、未熟児室管理への参加、光凝固を備えた病院との密接な連絡等により、本症による失明をなくすことも可能と思われる。我々も厚生省医療研究補助金の援助により、眼科医、小児科医による研究班を結成し研究を行つているので、今回はその結果を発表する。と前置きし、昭和四五年一月一日から同年一二月三一日まで九大附属病院と国立福岡中央病院の未熟児室に入院した一五七名のうち五九名37.6パーセントに未熟児網膜症が発生したこと、同期間中に九大眼科外来患児を含め合計二三例に対し光凝固を行い、そのうち一七例にはⅢ期の初めに光凝固を実施し、うち四例はⅡ期の終りからⅢ期の初期にかけての状態、つまり境界線は出現して提防状に隆起し、これに向つて怒張した網膜血管から帯状の新生血管が派生していたが、幸いまだ硝子体内への滲出は起こつていなかつた。しかし患者の住居が遠隔地で頻回の再来が困難であつたので、光凝固の時機を失するおそれがあつたため即時実施した。うち二例四眼のうち三眼は既にⅣ期の状態にあり、一眼のみⅢ期の状態であつた。このⅣ期の三眼は光凝固により進行はとまつたものの、乳頭から外側網膜へかけて繊維が増殖し、硝子体内へ増殖組織が残つた。Ⅳ期に進行していた例を除くものは、すべて光凝固実施後一週間経ると無血管帯へ網膜の血管が侵入し、硝子体内へ新生していた血管は消失した。と報告し、生下時体重と在胎期間との関係では、一般傾向としては、在胎期間が短いほど網膜症の高度の例が多いし、また生下時体重が少ないほど重症の網膜症が多いが、一五〇〇グラム以下とは限らず、一、五〇〇ないし一、八〇〇グラムの体重でも高度の網膜症の例が多いとし、補給酸素の濃度とその使用日数との関係では、数例を除いては酸素濃度は、殆んどが四〇パーセント以下におさえられているため、使用期間の長い方に高度の瘢痕例が多い。注目すべきことは、全く酸素の補給を受けていないにも拘らず、六一例中一二例の瘢痕期症例がみられたことがある。しかもその半数が高度の症例であつた。このことは酸素以外の因子、すなわち児側に明らかに発症の因子があつたことを示している。と述べている。更に、本症の光凝固による治療の実際は既に永田により確立されており、手術の時期の決定、術後の経過、成績などについて詳細な報告がある。我々もそれにならつて光凝固を行い、前記のような好結果を得た。としている。なお右論文の内容が学会で報告された際に討論がなされているが、そこで長崎大学徳永治彦医師、国立大村眼科の本多繁昭医師、久留米大学増田義哉医師らが大島医師に対して質問を行つている。
(15) 奥山和男医師は、昭和四六年一〇月「小児医学」四巻四号において、「水晶体後部線維増殖症」と題する論文を発表し、その中で同症の発生機序について述べ、その関連で、マグドナルドは三、四日の酸素投与を受けた未熟児にRLFの発生をみていること、網膜血管は出生直後に酸素に対して最も敏感に反応するもので、出生直後は短期間の酸素投与によつても、のちにRLFを発生することがあるといわれていることRLFは酸素を全く投与されない未熟児にも起こることがあるが、このような症例では、酸素以外の原因があるのかどうか未解決の問題であること、RLFは成熟児にも稀に報告されており、パツツは成熟児の網膜でも血管の発達が不完全なものがあることを認め、このような症例は成熟児でも羅患するかもしれないと考えている。と述べている。更に臨床所見に関連して、RLFの発生は生下時体重一、八〇〇グラム以下の未熟児に圧倒的に多く、特に一、五〇〇グラム以下のものに多発する。在胎期間でみると、在胎三二週以下で生れたものが殆んどであり、体重よりも在胎期間の方が本症の発生に関係が深い。眼底に病変が始まるのはふつう生後三週から一ケ月前後であり、在胎週数の短いものほど発症がおくれる傾向があり、ほぼ予定日前後に発病することが多いといわれる。本症は酸素療法を行つているうちに発症することは稀で、ふつうは酸素療法を中止してから起こるが、酸素投与中既に発病することもある。植村らは、未熟眼底からRLFが起こりやすいと述べている。未熟眼底とは乳頭が蒼白で縦橢円形または腎臓形を呈し、硝子動脈が遺残し、血管は狭く縦方向に走り、検眼鏡でみて眼底は部分的にしか焦点があわず見にくいものといつている。としている。進んで治療についてはACTHや副腎皮質ホルモンの投与で治癒したとされるものは、自然治癒なのか、薬物の効果であるか判定はむずかしい。昭和四三年永田らは活動期の症例に網膜の光凝固術を行い、頓挫的に病勢を停止させることができたと報告し、その後本法がRLFに対する有効な治療法であることが各施設で確認され、本症の前途に明るい光が投ぜられたのである。光凝固の適期は活動期Ⅲ期の始まりでこの時期を越したものは光凝固法を行つてもある程度の瘢痕を残し、Ⅳ期では光凝固法は全く無効である。光凝固が効を奏するか、無効に終わるかの時期は極めて短く、一、二週間ときには三、四日のこともあり、この時期を逃さず治療することが予後を左右することになる。RLFの活動期病変を早期に発見し、進行する症例については、光凝固の適応とその時期の決定のために、未熟児の管理に眼科医が関与することが望まれる。光凝固装置は高価であり、すべての未熟児施設に備えることは困難であるが、永田も提唱しているように各地区ごとに本装置を備えている病院を中心にRLFの治療のネツトワークを作ることが望ましい。と述べている。
(16) 名鉄病院眼科の田辺吉彦医師は、昭和四六年一一月「現代医学」一九巻二号に「未熟児網膜症」と題する論文を発表し、一度発生すれば手の施しようのなかつた以前と異なり、早期にこれを発見し、適当な時期に治療すれば、ほぼ確実に失明を防ぐことが可能となつた今日、眼科、産科、小児科が緊密に提携しあつてこれに対処することが望まれる。と述べ、臨床所見については、本疾患は殆んどが未熟児に起こり、多くは両眼性である。特に一、五〇〇グラム以下、三二週以前の早産児に多い。殆んどが酸素治療を受けた者に限られるが、稀に満期産の者や、全く酸素を使用しない者にも発生する。多くは一ケ月以内に発生し、六ケ月で瘢痕期に入る。幸い大部分は自然寛解するが、一部は進行して悲惨な後水晶体繊維増殖症に至る。自然治癒率は人によつて異なるが七五ないし八五パーセント位である。本疾患の初期は眼底検査による他は発見できない。とし、オーエンスの分類を紹介している治療については、確実な治療法の出た今日、副作用の点からもはやステロイドは使用すべきではないと私は考えている。確実な治療法とは永田によつて考え出された光凝固および同じ考えに基づく冷凍凝固である。勿論これにも限界があり一定以上に進行した症例には効果が期待できない。私達の経験では、オーエンスのⅢ期までなら大部分が光凝固の瘢痕を残すのみで治癒するが、時に乳頭牽引を来すことがある。
それ故Ⅲ期に入つた時点を狙うのが最も妥当と思われる。しかし経過をみていて経験的にⅢ期にゆくと思われるケースにはⅡ期において施行することも許されると私は考えている。この時は半分の凝固ですむ事が多いからである。光凝固の作用機転はアノキシアに陥つた網膜組織を壊死に導き、酸素消費を少なくさせると同時にVaso-formativeな物質の産出を低下せしめ、網膜の循環状態を改善し浮腫を取り除く点にある。冷凍凝固については経験がないが東北大やパツツの報告では有効との事である。熱が冷凍になつただけで作用機転は同じであるから当然と考えられる。としている。更に同医師は、昭和四四年から四六年ころまでに二五例に光凝固をしたが、うちオーエンスⅢ期以下の二一例は全例著効を奏し、うち一例はオーエンスⅣ期であつたが瘢痕期Ⅱ度まで回復し、うち一例はオーエンスⅢないしⅣ期の症例であつたが、左眼のみⅡ度の瘢痕を残して治癒した。残りの二例は光凝固が無効に終わつたが、その一例は右眼オーエンスⅣ期、左眼ⅢないしⅣ期で光凝固をしたが、Ⅴ期まで進行し、今一例は右眼オーエンスⅣないしⅤ期、左眼オーエンスⅤ期の症例であつた。と報告し、以上から光凝固は適当な時期に行えば、まず確実に治癒せしめることができる。しかも光凝固の人工瘢痕は自然治癒の瘢痕より網膜脈絡膜の癒着を伴う点網膜剥離の危険は、より少ないと思われる故、遅過ぎるよりは早過ぎる時期の方がまだよいと思われる。としている。
また右症例のうち、オーエンスⅢ期まで進行して光凝固を実施した例の中に、酸素総量一、〇〇〇リツトルを一昼夜で使用した例(濃度不明だが二七パーセント以上にはなるまいとの事)のあつたことを紹介している。未熟児の眼底検査については、検眼鏡は倒像検眼鏡でなければ周辺の観察はできないとし、未熟児網膜症の問題点として、本疾患は稀に成熟児にも発生する。人間の網膜血管は在胎八ケ月ころに完成されるが、かなり個人差があり一〇ケ月になつても完成していない者がある。こうした場合当然未熟児網膜症は起こりうる。また殆んど酸素を使用しないあるいは全く使用しない場合にも起こる。前記症例は、酸素濃度がせいぜい二七パーセントであり、一昼夜といつても開閉を考えればその時間は相当短いと思われる。大気の酸素濃度は約二一パーセントであるから、使用酸素は果たしてどれだけ影響したであろうか。大気中の酸素だけでも起こりえたのではなかろうか。と述べ、最後に光凝固は始まつてから僅か四年である。未熟な眼への侵襲が生長するにつれてどの様な影響を及ぼすかデータはない。永田の最初の症例は目下四才で0.9の視力を有し、格別の異常は認めないという。今後とも経過、追跡が大切である。としている。
(17) 国立大村病院眼科長崎大学眼科教室本多繁昭医師は、昭和四七年一月発行の「眼科臨床医報」六六巻一号に「未熟児網膜症に対する光凝固ならびに凍結凝固の経験」と題する論文を発表し、昭和四五年七月一日より昭和四六年七月三〇日まで同病院未熟児センターで、眼科的に京大式倒像鏡により定期的眼底精密検査を受けたものは述べ一二〇例で、そのうち正常の未熟児の眼底と異なり網膜周辺部の混濁が強過ぎるとか、あるいは無血管帯が正常より広過ぎるといつたような将来未網症になる危険がある眼底所見を呈した例は三〇例二五パーセントで、そのうち一〇例が進行して凝固を必要とし二〇例は自然治癒した。と述べ、光凝固の時期については、硝子体への血管の増殖の直前が最適と考えられている。即ちオーエンス活動期Ⅱ期よりⅢ期へ移行する時期に相当すると思われる。この時期になると永田らも指摘している如く時として進行は極めて速やかであり、決して油断できず、一週一回の観察のみでは危険であり、二、三回の観察を必要とする。増殖血管が硝子体に明らかに進入してから凝固を行つても進行を速やかに停止させることはむずかしく、たとえ停止させえても不安な長期間の観察を必要とすることになる。従つて大島らも述べているように、やや早期に凝固を行う必要があるかもしれない。とし、更に未網症において光凝固が多大の貢献をしていることは既に永田らが昭和四五年「臨床眼科」二四巻五号、一一号で報告している。ただわれわれ眼科医が残念に思うことは、今のところ光凝固器は高価であり購入するについても意のままにならないことである。また最近未網症に対し凍結手術の有効なことが佐々木らによつても昭和四六年「臨床眼科」二五巻で指摘されており、当院でも英国製のアモイルス凍結凝固器を用い未網症に使用して良い成績を上げえた。と述べ、総括として、著者はわずか一年間の観察経験からであるが、未熟児の眼底に異常を呈する児が想像以上に多いことを知つた。進行して失明に至る例がそれほど目立たないのは、幸いにして自然治癒しているからで、低体重の生存例が多くなるにつれてその中の何例かには数パーセントの確率で必ず未網症にて失明する可能性のある例が含まれていると考えなければならない。進行してしまえば治癒させる手段がなく本人にとつて悲惨であり、これを防ぐ方法は未熟児の定期的な眼底検査以外にない。多数の未熟児を収容する施設の児を定期的に観察することは眼科医にとり負担であるが、小児科との緊密な連絡の下に行えば、比較的短時間でできる。またクベースを解放された時点で少しでも異常がある児は、退院後のfollow upをやめることは危険であり、両親に充分の説明が必要である。殆んどの例はオーエンスやリースの分類の経過をとるが、時として異常に速やかに進行したり、あるいはDemarkations Linieの一ケ所だけが異常に後極へ進行して黄班部へ近ずく例もある。著者の例では硝子体へ新生血管が進入する直前には束状の血管がちようどミミズがはつたように浮彫りになるのが認められた、オーエンスやリースの分類では硝子体へ新生血管の進入する時期を明記されていないが、少なくともそれ以前に凝固した方がよいことは間違いない。今後の最も大切なことは、これらの凝固例がどのような経過をとるかということである。鋸状縁より網膜周辺部は硝子体の構造からも重要なところであり、今後に残された問題である。著者も上記症例についてできるだけfollow upするつもりである。と述べている。
(二) 以上の文献によれば、次のことは昭和四七年一月当時におけるわが国の専門的研究者間の通説的見解であつたと認められる。
(1) 本症の発生について
本症は、未熟児のうち酸素不使用例や一日から五日間程度の酸素療法を行つたに過ぎないものにも発生し、それらの中にも重症例がみられること。本症は生下時体重一、六〇〇グラム以下、在胎週数三二週以下のものに頻発し、重症化する例の多いこと。
(2) 治療法について
本症の治療法としては、光凝固が最良、唯一のものであり、オーエンス活動期Ⅲ期の初めが光凝固の適期であり、これまでに光凝固をすれば殆んど治癒するが、更に進行して活動期Ⅳ期に入れば光凝固は効果がないこと。
(3) 定期的検査について
本症を可逆性の時期に発見し、適期に光凝固をするためには、定期的眼底検査が絶対必要であり、その時期は、本症が発生する可能性の大きい生後一ケ月前後から週一回の割合で二ケ月間行うこと。眼底検査は、あらかじめ未熟児の眼を散瞳して、小児用開瞼器で眼を開かせ、倒像検眼鏡をもつて眼底特に本症の発生する周辺網膜部を精査しなければならないこと。
(三) 昭和四七年一月当時における定期的眼底検査、光凝固法の実践程度
被告は、昭和四七年一月当時、一般臨床医の間では、未熟児の定期的眼底検査は普遍化されておらず、光凝固法も研究段階であり、昭和五〇年三月に厚生省研究班が診断、治療基準を報告するまでは、確立した治療方法としては扱われていなかつたと主張するので、この点について判断する。
前記(一)でふれた如く、昭和四三年四月に、永田医師の光凝固法の発表がなされる以前においても、植村医師らにより本症発見のため生後より三ケ月まで週一回の定期的眼底検査が必要であることが強調され、本症を可逆性の時期に発見し、治療を行うべきことが主張され、その治療法としては副腎皮質ホルモン等の薬物療法が紹介されてはいたが、当時より薬物療法がどの程度実効性のあるものかは明らかにされていなかつた(現在ではその効果はほぼ否定されている。)のであるから、当時の定期的眼底検査は、確実な治療方法とは結びついておらず、それにより本症を発見したとしても有効な治療法が存在しない以上、一般臨床医が治療行為の一環として、本症の発見のため定期的眼底検査を行うという形では普及していく基盤を欠いていたもので、専ら本症の病態を観察し、その治療方法等の開発を目的とする、ごく一部の先駆的な研究者およびそれらの周辺の者の間でしか実行されていなかつたものと考えられる。このことは、光凝固法が提案されたのちに直ちに追試を行つた先進的な機関においてさえ、それ以前は本症の発見のための定期的眼底検査が整備された形では行われていなかつた事実からも推察できる。しかしながら、昭和四三年永田医師により光凝固法が本症に対して有効であつたとの報告がなされた以後において、各地の大学病院等で光凝固の追試がなされ、これが治療方法として採用されるようになると、その大学病院等の光凝固治療を利用できる各地方の病院等の臨床医が本症の重要性を認識して定期的眼底検査を依頼するようになり、急速に普及していつたものと認められる。(これは前記(一)で紹介された各大学での光凝固例の中に他院からの紹介例があることからも窺われる。)
そして、前記(一)でふれた如く、永田医師は、昭和四三年四月に本症二症例に対し光凝固を行つた結果、本症の進行を頓挫せしめたことを報告し、昭和四五年五月に四症例を、同年一一月に更に六症例を追加発表し、その際、光凝固法は現在最も確実な治療法ということができる。現在光凝固装置は、相当数全国的に設置されている。これを各地区ごとのブロツクにわけ、未熟児網膜症の治療のネツトワークを作れば、本邦から未熟児網膜症による失明例を根絶することも夢ではない。必要なことは、眼科医、小児科医の熱意であり、行動力である。と述べ、関西医科大学上原医師は、昭和四六年四月に五症例に光凝固を行いその有効性を確認したと述べ、九州大学の大島医師が昭和四六年九月に二三例の、名鉄病院の田辺医師が昭和四六年一一月に二五例の、国立大村病院の本多医師が昭和四七年一月に一〇例の各光凝固施行例を紹介し、光凝固が適期になされれば効果があると報告しており、その他のいくつかの施設においても昭和四七年一月当時までに光凝固の有効性を確認しており、それらの各病院、施設においては、右療法の有効性を確認したあとは、本症に対する治療として採用しているものであり、昭和四七年一月当時においては、それらの先進的病院では光凝固は治療法として確立し、これを中心として各地方の病院へ普及している段階であつたことが認められる。本症に対する光凝固による治療は、小児の失明という深刻な事態と直接関連していたため、これに対する社会的要請が先行し、その結果として、右の如く、試行追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較治療効果と副作用の確認とその教育、普及という医療の常道を踏まず、直接普及段階に入つたものであるといえる。
また、昭和四七年一月当時までに発表された前記(一)の各文献によれば、光凝固の適期または適応基準については、大部分は活動期Ⅲ期の初めとしており、Ⅲ期が更に進行してⅣ期になると光凝固が効を奏しないことは、文献の発表者の間で一致するところである。ただ一部には、Ⅱ期の終りまたはⅢ期の初めより少し早目に行うことを主張している者もいるが、これも経験上Ⅲ期から更に進むことが予測される事例について述べているのであつて、特に異なつた範ちゆうの見解ともみられず、この程度の見解の差があるからといつて光凝固が治療方法として採用できなかつたとは到底いえるものではない。もつとも、光凝固の瘢痕が将来及ぼす影響については、確かに当時においても明らかにはされていないし、この点については永田医師が最初光凝固法を発表した際にも、自ら指摘しており困難な問題ではある。しかしながら昭和四六年一一月の「現代医学」一九巻二号において、田辺医師は、永田医師が最初に試行した症例の未熟児は、目下四才で、0.9の視力を有し、格別の異常は認められない。今後とも経過観察が重要である。と報告しており、副作用の点が明確にされていないにしても、当時本症の変症例が各地で発症し、これが定期的眼底検査により発見されている状況にあり、適期を失すれば失明することは明らかとされており、しかもこれを阻止しうる唯一の方法が光凝固法であつたのであるから、副作用のあることが特に明らかにされていない限り、また前記のとおり四才までは正常の視力を有していることが報告されていたことも考慮すれば、治療方法として臨床上採用すべきものではなかつたとはいえない。更に、厚生省研究班が昭和五〇年に発表した本症の診断基準、治療基準は、当時行われていたそれらの最大公約数的なものを追認したに過ぎないものと認められ、それ以前に右診断基準、治療基準が存在しなかつたものではない。
(四) 昭和四七年一月当時の福岡市および北九州市周辺での状況
前記(一)、(三)でふれた如く、九大医学部眼科教室では昭和四五年中に、九大附属病院と国立福岡中央病院の未熟児室に入院し定期的眼底検査を受けた患児と、九大眼科外来を受診しその後追跡調査を受けた患児のうち、二三例に光凝固の治療を行つており、その後も同様の体制で未熟児の保育、管理をしているのであり、被告市立小倉病院に、昭和四六年二月倒像検眼鏡が購入され、昭和四六年五月一〇日光凝固装置も設置されたことは当事者間に争いがない。更に、証人栗本晋二の証言によれば、右小倉病院では、栗本医師が眼科医として赴任してきた昭和四五年八月過ぎころから、同病院小児科神田医師の依頼により、倒像検眼鏡が購入される以前は国立病院より右検眼鏡を借用したり、直像鏡使用のときは未熟児の眼球に糸をかけて引張るなどし、右倒像検眼鏡購入後はそれを使用して極小児については生後二週間目より、他の普通未熟児については生後三週間目より、各生後三ケ月まで、定期的眼底検査を行つてきたこと、光凝固装置が購入された際、北九州市では初めてということで新聞で大きく報道されたこと、昭和四七年三月ころには、神田医師と同期であつた九大の大島医師に本症に関する講演を依頼し、小倉病院で医師会眼科医会長、開業医三、四人の他国立病院の医師等を集めて本症についての講演がなされたこと、その後栗本医師は、昭和四七年五月八日からは自ら光凝固を行うようになつたが、それ以前は未熟児の眼底に異常を発見すれば、大島医師に意見を求めたり、九大病院へ転送していたこと、栗本医師らは、昭和四三年四月永田医師による光凝固法が提唱されるまでは、本症による視覚障害はある程度やむをえないと考えていたが、光凝固法が発表されてからは、これを画期的な治療法であると認めて注目し始め、現在でも光凝固は本症に対する有効な治療法であることを肯認していることが認められる。
3 原医師の過失
(一) 本症に関し修得すべき平均的知識
(1) 本症は、眼科、小児科、産科の各専門分野に関連する疾患であるという特殊性を有しているが、前記2、(一)で説示したとおり、本症の先進的研究は主として眼科学界においてなされており、眼科関係の文献に多くの論文が発表されている。そこで、眼科医としては、自己の専門分野に関する学界の業績発表状況には常に注意を払つておくべきであるところ、証人原駿の証言によれば、原医師は原告美穂出生当時、「臨床眼科」「眼科」「日本眼科学会雑誌」等の文献を継続購入しており、昭和四七年一月当時までに発表されていた前記2、(一)の(4)昭和四一年五月発行の「臨床眼科」二〇巻五号、同(7)昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号、同(8)同年一〇月発行の「眼科」一〇巻一〇号、同(9)昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号、同(10)(11)同年一一月発行の「臨床眼科」二四巻一一号、同(12)昭和四六年一月発行の「日本眼科学会雑誌」同(13)同年四月発行の「臨床眼科」二五巻四号の各文献は購入し、容易に閲説できる状態にあつたことが認められ、また、同(14)同年九月発行の「日本眼科紀要」二二巻九号、同(17)昭和四七年一月発行の「眼科臨床医報」六六巻一号の各文献も眼科の専門誌であるから当然研究しておくべきであつたというべく、これらの文献によれば、昭和四七年四月当時においても前記2、(二)の程度の知識は当然有することができたと認められるし、現に、証人原駿の証言によれば、原医師は昭和四六年ころより本証発見のための未熟児の眼底検査を依頼されており、本症による失明の危険性は充分認識していたことが認められ、また原告美穂出生当時は、定期的眼底検査の必要性が植村医師らにより強調され始めて七年余を経過し、永田医師が光凝固を提唱して四年近くになり、九州大学で光凝固が実施されてから二年間の期間を経ていること、被告市立小倉病院では、昭和四六年二月に倒像検眼鏡が購入され、同年五月一〇日には光凝固装置をも備えたことが新聞で大きく報道され、定期的眼底検査は昭和四五年の八月過ぎころから実施されており、光凝固の治療も昭和四七年五月八日から施行されていること、その他前記認定の諸般の事情を考慮すれば原医師は当時までに、総合病院の眼科医として通常の研鑽努力をしていれば、(1)本症は未熟児のうち酸素不使用例にも発生することがあり、網膜周辺から発症する本症を早期に発見するためには倒像検眼鏡が必要であること、②生下時体重一、六〇〇グラム在胎週数三二週以下の未熟児に本症の発生重症化の傾向が強いこと、③光凝固は本症に対する唯一の有効な治療法で、施行時期は活動期Ⅲ期の初めが適期であり、Ⅳ期になると効を奏しないこと、④本症を早期に発見しこれによる失明を防ぐには、生後一ケ月前後から定期的な眼底検査を週に一回程度の割合で二ケ月間行うことが絶対不可欠であること、以上の程度の知識は修得することができ、かつ、研鑽努力により修得すべきであつたと認めるのが相当である(医師の職務の重要性からして、かなり高度の研鑽努力を要求されてもやむをえないものと考えられる。)
(2) 右につき被告は、眼底検査に倒像検眼鏡が必要であることは、当時臨床医の間では一般的には認識されていなかつたと主張するが、前記認定の如く、永田医師は、昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号において、天理病院では、眼底検査に倒像検眼鏡を使用しており、本症の活動期症状の早期発見と経過観察には特に眼底周辺部の精細な検査が必須であり、乳頭周囲とか赤道部までの眼底検査で満足すべきではないこと、同年一〇月発行の「眼科」一〇巻一〇号において、本症活動期の病変は網膜血管の末梢部特に耳側に多く始まるから、未熟児の眼底検査には倒像検眼鏡が是非共必要であること、更に昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号では、生後一ケ月から三ケ月までの最も危険な時期における網膜周辺部の観察を完全に行うことが必要で、決して直像鏡のみによる眼底検査で満足してはならないこと、同年一一月発行の「臨床眼科」二四巻一一号においても、活動期病変の早期発見と追跡には倒像検眼鏡が絶対要件であり、直像検査はほとんど不必要といつてよく、直像検査で本症の初期症状を早期に発見することは不可能でないにしても困難であること、を強調しており、昭和四六年九月発行の「日本眼科紀要」二二巻九号によれば、九州大学医学部眼科教室での昭和四五年中の未熟児の眼底検査には、シエペンス型双眼倒像検眼鏡、東大式倒像検眼鏡、ボンノスコープ等を使用していたこと、昭和四七年一月発行の「眼科臨床医報」六六巻一号にも、国立大村病院で未熟児を東大式倒像鏡により観察したことが述べられており、現に小倉病院でも、前記認定の如く、倒像検眼鏡は昭和四六年二月ころ購入され定期的眼底検査に使用されており、それ以前は眼底検査の際は国立病院から倒像検眼鏡を借用していたような事実もあるのであるから、昭和四七年四月当時、少なくとも本件八幡病院程度の総合病院勤務の眼科医としては、本症発見のための眼底検査には倒像検眼鏡が必要であることは認識すべきであり、かつ、認識することができたと認めるのが相当である。
(二) 眼底検査の懈怠(不充分な検査)
(1) 原告らは、原医師は原告美穂が退院前の昭和四七年四月四日、同月一一日、五月九日、退院後の六月一三日、六月二七日にはその眼底検査をしなかつたため、同年二月ころ既に原告美穂の眼底に発生していた本症が発見できず、七月一一日ようやく本症の瘢痕期に至り発見したものである旨主張するのに対し、被告は、原医師は前記四月四日、同月一一日、五月九日、六月一三日、同月二七日と眼底検査を行つたが、眼底には異常はなく、七月一一日に初めて左眼の網膜の耳側周辺部に灰白色の混濁を認め、七月二五日には両眼とも活動期ⅡないしⅢ期の状態であつたものであるから、もし七月二八日に瘢痕期ⅡないしⅢ度になつたのであれば活動期の進行の著しく早い本症Ⅱ型(激症型)の網膜症であつた旨主張するので、この点について判断する。
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
(ア) 原告美穂入院中の昭和四七年四月四日、同月一一日、五月九日には、八幡病院小児科の看護婦が、退院後の六月一三日、同月二七日、七月一一日、同月二五日には原告俊子らが、それぞれ原告美穂を検診のため同病院眼科に連れて行つているが、原医師の作成した健康保険診療録の表面に今井医師からの四月四日付、六月一三日付の紹介状が貼付してあり、右紹介状の御返事欄はいずれも切り離され、次頁の投薬、注射、処置、その他の診療の事実と題する表の中には、右月日を記載し、精密眼底検査の欄に点数を記載しているのみで、カルテは作成されていない。(ただし、原医師は七月一一日には右二通の紹介状のうちの一通から切り離したと思われる御返事欄に「左未熟児網膜症の疑、眼球動揺のため、詳細不明、再検を期します。」と記載しこれを今井医師に交付している。)こと。
(イ) 原医師は、原告美穂の眼底検査のため直像鏡を使用したものであるが、本症は網膜周辺から発症するものであるから、直像鏡では、眼球を非常に圧迫するとか、糸を眼球にかけて引張つたりすれば、活動期Ⅱ期になればみえる可能性がなくはないが、活動期Ⅰ、Ⅱ期の病変を観察することは非常に困難であり、原医師は眼球に糸をかけて引張る等の操作をしたことはないこと。
(ウ) 原医師は、退院後の六月一三日、同月二七日の眼底検診では、原告美穂が嫌つて泣くため、眼球に傷がつくなどの理由で充分な眼底検査をしておらず、七月一一日にも眼球が動揺し詳細にはみられないとして、眼底の精査をあきらめていること。
(エ) 原医師は、当時までに本症の病変を具体的に体験したことはなく、本症発見のための眼底検査は月に一回でも足りると考えていたので、七月一一日の眼底検査では左眼に病変を認めながら、それ以前と同様に二週間後に来るよう指示しており、また、当時の美穂の眼底所見が本症の活動期、瘢痕期を含む臨床経過のうち、どの段階にあたるかにつき正確な認識は有していなかつたこと。
(オ) 小倉病院の栗本医師は、簡易保険障害診断書兼入院証明書の本症の傷害発生年月日欄に、昭和四七年二月ころと記載し、その当時本症が発症したものと推定しており、また同医師は、日常診療では生後九〇日を過ぎれば、普通は光凝固を必要とする程度の重症例は発生しないと考えており、更に同医師の経験では生後六ケ月ころになつて本症が発生した例はないこと。
以上の事実が認められ、<る>。
そこで、以上認定の事実に、鑑定人大島健司の鑑定結果中に「生後六ケ月の七月二八日に、原告美穂の眼底に瘢痕病変が認められたということは、それ以前に眼底周辺部に何らかの活動期病変が存在したことになる。当時八幡病院では直像鏡で眼底検査が行われていたが、直像鏡では未熟児の眼底周辺部を詳細に観察することは極めて困難であることなどから、五、六ケ月以前に周辺部に何らかの病変があり、しだいに瘢痕化し、その影響が眼底後極部までに及び、そこで初めて直像鏡で確認されるようになつた可能性が大である。」との記載があること、前記三、2、(三)で説示したとおり、本症Ⅱ型は、網膜血管が耳側のみでなく鼻側においても発達途上にあるような著しく未発達な網膜血管を有する生下時体重一、一〇〇グラム以下の極小低出生体重児に極めて多くみられるもので、植村医師らの自験例では、その約半数が生下時体重九〇〇グラム以下であり、一、五〇〇グラム以上の未熟児にはみられなかつたことからして、生下時体重一、六七〇グラムもある原告美穂に本症Ⅱ型が発症することはあまり考えられないこと、前記五、2、(一)の(4)で植村医師も、生後三ケ月まで眼底が正常であれば一応RLFの危険はないと述べていること、原告美穂の眼底に六月一三日、同月二七日ころまで異常がなかつたとすれば、生後四、五ケ月を経過しているから特別の事情がない以上その時点では網膜血管は完成していると考えられ、七月一一日に至り始めて本症の活動期病変が発生するとは到底考えられないこと、前記五、2、(一)の(9)で永田医師は、光凝固を行つた時点においても、後極部のみをみれば、網膜中心静脈の充血以外はほぼ正常に近い眼底所見を呈しており、網膜症の実態を理解せず、簡単に検査をすれば看過される危険性が大きいと述べていること等を総合して判断すれば、原告美穂の本症の活動期病変は、瘢痕期と認められた七月二八日より相当以前において発症していたものであるのに、原医師は四月四日、同月一一日、五月九日、六月一三日、同月二七日の各眼底検査の一部を実施していないか、あるいは実施したとしても直像鏡による不充分な検眼であつたため、活動期病変を発見できず、右病変が瘢痕期まで進行し後極部分に障害が及んできたのである七月一一日、同月二五日に至り、ようやく直像鏡により右瘢痕期の病変に気づいたもの(従つて同医師がその病変を活動期ⅡないしⅢ期であると診断したのは誤診である。)と認めるのが相当であり、<証拠判断略>。
(2) 右認定の事実に基づき原医師の過失の有無を判断するに、原医師が総合病院の眼科医として昭和四七年四月当時修得すべきであつた本症に関する平均的知識の内容は前記(一)、(1)の①ないし④掲記の程度のものと考えられるが、<証拠>によれば、原医師は当時、今井医師から原告美穂が在胎三一週の未熟児であつたことの連絡を受けているにも拘らず、かかる未熟児に本症が発生し重症化しやすい傾向があることを認識せず、その眼底検査の方法についても本症を早期に発見するためには倒像検眼鏡が絶対不可欠であることを充分に認識していなかつたものと認められるので、原医師には、総合病院において未熟児保育医療に携わる眼科医の有すべき平均的知識に欠けるところがあつたものといわざるをえず、特に倒像検眼鏡の必要性についての知識が不充分であつたことは重大であり、このことが、ひいては前記の如き不充分な検眼につながつたものと考えられ、充分な眼底検査義務を怠つた過失があるものというべきである。
4 今井医師の過失
(一) 前記認定のとおり、今井医師は昭和四七年四月四日に初めて原告美穂の眼底検査を原医師に依頼したのであるが、その時原告美穂は生後六七日目であるところ、前記乙第一五号証によれば、永田医師が昭和四二年から昭和五〇年までに施行して奏効した一二例の光凝固施行時期は生後三七日ないし八一日であり、そのうち生後六七日以降のものは三例で、大部分の九例が六七日未満であることが認められるから、今井医師が右眼底検査を依頼した四月四日の時点では、既に光凝固の適期を失していたと考えられなくもないので、この場合には、今井医師が生後一ケ月前後より週一回程度の眼底検査を眼科の協力を得て行わなかつた点についての過失が問題になる。
(二) 早期眼底検査実施依頼の懈怠
(1) <証拠>によれば、当時八幡病院では、未熟児の眼底検査は生後何週目より定期的に行うという取り決めはなく、今井医師がケースバイケースの判断により眼科に対してこれを依頼していたこと、八幡病院の未熟児室には常時少ないときで二、三人、多いときで五、六人の未熟児が入院しており、今井医師が主治医で第一次的な責任者であつたこと、同医師は本症の重大性および眼底検査の必要性を一応認識していたことが認められる。
(2) 右のとおり、八幡病院の未熟児室には常時数人の未熟児が入院している状況にあり、今井医師がその未熟児管理の第一次的責任者であつたのであるから今井医師は、総合病院における小児科医として、当時要求されるできるだけ高度の知識と技術を修得してその管理にあたるべきであり、そのためには専門分野である小児科関係の文献はもとより、本症に関し隣接分野である眼科関係の文献にもできるだけ目を通し、日々刻々進歩してゆく業績を消化吸収するための研鑽を積む努力をする必要があつたものと考えるのが相当である。
(3) しかるところ、前記五、2、(一)掲記の文献中、昭和四七年一月当時までに発表されていた小児科関係のものと思われる文献としては、永田医師による光凝固法が発表される以前のものでは、昭和四〇年六月の「小児科」六巻六号、昭和四一年の「小児の眼科」、昭和四二年八月の「医療」二一巻八号(ただし、これは小児科医だけを対象とするものではなく医師一般を対象としていると思われる。)、昭和四三年一月の「小児科診療」三一巻一号があるが、これにおいては、既に、二、三日の酸素療法でも本症が発生すること、週一回の眼底検査の必要性が主張されており、光凝固法が発表された以後では、昭和四六年一〇月「小児医学」四巻四号において、酸素未投与例あるいは三、四日の酸素投与例でも本症が発生しうること、在胎週数三二週以下、生下時体重一、六〇〇グラム以下のものに最も多く発症すること、昭和四三年に永田医師により紹介された光凝固法が本症に対する有効な治療法であることが各施設で確認されていること、本症の活動期病変を早期に発見し、進行する症例については、光凝固の適応とその時期の決定のために、未熟児の管理に眼科医が関与することが望まれる、と述べられており、昭和四六年一一月には「現代医学」一九巻二号(これも各分野の医師一般を対象とする文献であると思われる。)において、名鉄病院の田辺医師が本症二五症例に対して光凝固を行い有効であつたこと、酸素未使用例、少数日使用例についても本症が発生すること、本症は在胎三二週未満の未熟児に多く発生することが述べられており、これらの文献については総合病院の小児科医である今井医師は当然研究すべきであつたし、また、前記「小児医学」四巻四号には、前記五、2、(8)の「眼科」一〇巻一〇号に永田医師の「未熟児網膜症の光凝固による治療の可能性」なる論文等が発表されていることが紹介されており、右「現代医学」一九巻二号においても、本症に関する永田、上原、植村の各論文が紹介されていたのであるから、小児科医としても右眼科関係の本症に関する論文が発表されていることを知りえたし、読む機会も与えられていたといわなければならない。更に、前記3の原医師の過失に関して述べた九大病院や小倉病院での定期的眼底検査および光凝固法施行に関する状況等の諸般の事情を考慮すれば、今井医師は原告美穂の出生当時までに、総合病院の小児科医として通常の研鑽努力をしていれば、本症は生下時体重一、六〇〇グラム、在胎週数三二週以下の未熟児において発生しやすく、しかも重症化の傾向が強く、また酸素未投与例、少数日使用例についても本症が発生し、重症例もあり、その治療法としては光凝固が唯一の有効な方法であるが、これが奏効する時期は限られているので、生後一ケ月前後から定期的な眼底検査を週に一回程度の割合で二ケ月間行うことが絶対不可欠であるとの知識は修得することができ、かつ修得すべきであつたと認めるのが相当である。
(4) しかるに今井医師は、原告美穂の場合酸素使用が一日間に過ぎないものの、在胎週数が三一週で、生下時体重も一、六〇〇グラムを若干越えるに過ぎない未熟児であつたにも拘らず、生後一ケ月前後より週一回程度の定期的眼底検査を眼科医の協力を得て行うことをしなかつたのであるから、他に特段の事情のない限り、今井医師は当時、総合病院において未熟児保育医療に携わる小児科医の有すべき右平均的知識に欠けるところがあつたか、あるいは右知識を有しながら、漫然と生後六七日目に原告美穂の眼底検査を依頼するに至つたもので、早期眼底検査実施依頼義務を怠つた過失があるものというべきである。
5 原、今井両医師の過失と原告美穂の視覚障害との相当因果関係
(一) 光凝固法施行の可能性
前記認定のとおり、九大病院では昭和四五年ころから光凝固を本症に対する治療行為として行つており、被告市立小倉病院でも、本症患者を九大病院に転院させていたことがあり、その後の昭和四七年五月八日からは自院で光凝固を実施するようになつていたのであり、他方原告美穂は、同年四月四日から完全に保育器より出て保育されており、五月一五日には退院できる状況にあつたのであるから、本症の可逆性の時期までに、今井医師が原医師に定期的眼底検査を依頼し、かつ、原医師が倒像検眼鏡により充分な眼底検査を実施しこれを発見しておれば、その症状により、直ちに、あるいは進行を観察した上で光凝固施行の適期を失わないうちに、九大病院へ(同年五月八日前後ならば小倉病院にも)転医させて光凝固の治療を受けさせうる状況にあつたといわなければならない。
(二) 光凝固法の有効確実性
被告は、本症のうち自然寛解しないものに対する治療法としては確立された安全にして有効かつ確実というべきものはなく、光凝固法とて未だ研究段階にあり、これに対し批判的消極的意見も述べられている状況であるから、仮に原、今井の両医師が光凝固の適期前に美穂の本症罹患を発見していたとしても、光凝固により本症を治癒しえたか否かは疑問であると主張するもののようであるので、この点について判断する。
なるほど、本症については未だにその原因が解明されない症例(本件美穂の発症原因についても前記の程度しか認定できない。)が存在し、光凝固法についても最近では絶対安全にして有効確実ということができない状況にあることは、先に説示したことおよび<証拠>から窺われるところであるから、美穂に対し適期に右治療法を施行したならば確実に本症を治癒しえたとは断定し難い。
しかしながら当裁判所は、高度の医学専門分野における治療行為の適否が判断の対象となる本件訴訟の特質に鑑み、前記のとおり、わが国において本症に対する光凝固法施行の奏効例が相当数報告されている事実が立証された以上、右治療法に関する医学上の専門的知識と資料とを保有するはずの医師、被告側において、原告美穂に対し適期に光凝固を施行しても前記視覚障害を避けられなかつたとの特段の事情を立証しない限り、原告美穂についても右多数の報告例と同様に適期に光凝固を施行すれば本証を治癒しえたものと推認するのが相当であると考えるところ、<証拠判断略>。
6 むすび
以上の理由により、原告美穂の前記視覚障害は、原または今井医師の過失に基づき、もしくは両医師の過失が競合して発生したものというべきであるところ、被告が当時右両医師を使用しその業務として原告美穂の保育にあたらせていたことは当事者間に争いがないので、被告は民法七一五条一項本文による使用者責任として、右視覚障害により原告らに生じた後記損害を賠償する義務を免れない。
六損害
1 原告美穂の逸失利益
(一) 原告美穂が昭和四七年一月三〇日生れの女子であることは当事者間に争いがなく、本症により視覚障害を受けその視力が両眼で0.02程度で回復の見込みのないことは前記認定のとおりであり、<証拠>によれば、原告美穂は昭和四八年一〇月一九日身体障害者手帳の交付を受け一級に認定されていることが認められるのであるから、労働能力を全部喪失したものというべきである。従つて、反証のない限り、原告美穂は右視覚障害がなければ将来順調に成長し、高校卒業の一八才から昭和四七年簡易生命表による女子の平均寿命の範囲内で六七才に達するまで四九年間平均的女性として稼働し収入を得たであろうと推認されるのに、右視覚障害のため右全収入を失つたものであるが、右逸失利益の算定については他に相当な方法がないので、原告らの援用する昭和五〇年度賃金センサス第一巻第一表記載の女子産業計学歴計平均年収金一、三五一、五〇〇円をもつて、原告美穂が得べかりし毎年の平均収入額とし、これより年五分の割合による中間利息をライブニツツ方式により控除して、逸失利益現価(右視覚障害発生の明らかな昭和四七年七月二八日基準)を計算すると金一〇、二〇三、一四九円となる。
(算式)
1,351,500×(19.2390−11.6895)
=10,203,149
(二) 被告は、本症は原告美穂が未熟児として生れたことに起因するものであるから、損害賠償の算定には右事情が斟酌されねばならないと主張し、右原告の網膜の未熟性が本症発生の素因をなしていることは前記認定のとおりであるが、右未熟性の程度は明らかでないのみならず、前記医師の過失がなけれは重篤な視覚障害をもたらすことはなかつたものと推認すべきである以上、右原告の網膜の未熟性の故をもつて右逸失利益の損害賠償額を減額することは、その法的根拠を欠き相当でない(ただし、右の事情を後記慰藉料の認定にあたり斟酌することは許されるものと考えられる。)。
2 原告らの慰藉料
前記認定のとおり、原、今井両医師の過失により、原告美穂は、失明同然の障害を受け、視覚により享受できるすべての利益を失つたまま一生を過ごさなければならなくなつたのであるから、その精神的苦痛は甚大であると認められ、また、両親である原告和紀、同俊子は、健康な子供の成長を期待していたにも拘らず、原告美穂の失明同然の障害によりその期待を踏みじられ、将来の監護養育についても多大な心労を余儀なくされるに至つたのであるから、その精神的苦痛は美穂が死亡した場合に比肩すべきものと認められるが、他方、前記認定のとおり、昭和四七年当時における小児科、眼科学界全般においては、本症に関する専門的知識は未だ普及段階にあつて、被告側の過失にも斟酌すべきものがあり、本症の発生原因その他本件証拠上認められる諸般の事情を考慮すれば、右精神的苦痛に対する慰藉料としては、原告美穂については金六、〇〇〇、〇〇〇円、原告俊子、同和紀については各金二、〇〇〇、〇〇〇円をもつて相当と認める。
3 弁護士費用
<証拠>によれば、被告が前記損害賠償金の任意弁済に応じないので、原告らは弁護士たる本件訴訟代理人にその取立てを委任し、主張の如き報酬を支払う旨約したことが認められるが、本件訴訟の難易、請求の認容額等本件における諸般の事情を考慮すれば、被告が原告らに賠償すべき弁護士費用は、原告美穂については金一、六〇〇、〇〇〇円、原告和紀、同俊子については各金二〇〇、〇〇〇円をもつて相当と認める。
七結語
よつて、被告は、原告美穂に対し金一七、八〇三、一四九円、原告和紀、同俊子に対し各金二、二〇〇、〇〇〇円、および内弁護士費用を除く原告美穂に対する金一六、二〇三、一四九円、原告和紀、同俊子に対する各金二、〇〇〇、〇〇〇円については不法行為ののちで美穂の視覚障害発生の明らかな昭和四七年七月二八日から支払済まで、内弁護士費用である原告美穂に対する金一、六〇〇、〇〇〇円、原告和紀、同俊子に対する各金二〇〇、〇〇〇円については本判決送達の日の翌日から支払済まで、各民法所定年五分の割合による遅延損害金をそれぞれ支払う義務があり、原告らの本訴請求は右の範囲で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用し、仮執行免脱宣言は相当でないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。
(谷水央 斎藤精一 杉山正士)
別紙《省略》